道頓堀はどのように栄えていったのか? 道頓堀の歴史に迫る
大阪ミナミの繁華街に位置し、大阪観光の目玉のひとつでもある「道頓堀」。
大阪の方はもちろん大阪に観光に来たことがある方なら誰しも一度は訪れたことがあるのではないでしょうか。
今では飲食店が数多く営業して栄えていますが、道頓堀はいかにして発展してきたかは知らない方もいるかと思います。
そこで今回は道頓堀の歴史について迫っていきます。
道頓堀の名前の由来
道頓堀の歴史は江戸幕府が開かれる少し前にさかのぼります。
1612年に安井道頓(やすい・どうとん)が自らの財産を使って南堀河の開削をすすめました。
道頓は大阪の夏の陣で戦死してしまいますが、従弟の道ト(どうぼく)が工事を引き継いで1615年に運河が完成します。
そして道頓の功績を残すため、「道頓堀」という名をつけたのです。
歌舞伎・浄瑠璃などの芝居の街に
道頓堀は幕府の計画によって芝居の街へなっていきます。
江戸時代初期に、芝居小屋を道頓堀に移設したため歌舞伎や義太夫などを演じる小屋が多く集まることになります。
そのため芝居の客をもてなす飲食店も多く立ち並び、「いろは茶屋」が生まれました。
17世紀後半になると上方歌舞伎、浄瑠璃の発達とともに新しい芝居小屋も数多く誕生し、東洋のシェークスピアとも称される近松門左衛門の名作も道頓堀で上演されました。
現在でも国立文学劇場や松竹座、角座、なんばグランド花月といった演劇の舞台があり、多くの見物客でにぎわいを見せています。
巨大看板の街
道頓堀のシンボルと言えば巨大看板です。
「グリコ」や「かに道楽」などの巨大看板は“大阪の象徴”といっても過言ではないでしょう。
・グリコネオンの歴史
グリコネオンが道頓堀に設置されたのは1935年。
高さは33メートルのネオン塔で、ランナーとグリコの文字を6色に変えながら点滅させるという当時としてはとても派手な看板でした。
戦時中になると鉄材供出のため撤去されてしまいますが、1955年に復活します。
それから代替わりを繰り返しつつ、現在の6代目グリコネオンに至っています。
ちなみにランナーのモデルは1921年に開かれた第5回極東競技大会出場したフィリピン人のカタロン選手と言われています。
・かに道楽の看板の歴史
かに料理店「かに道楽」が、1962年にかに道楽本店をオープンさせたときに白地に赤い日の丸をイメージさせた動くかにの看板を置いたことが「かに看板」の始まりです。
1980年代には、かに看板を真似て作られた飲食チェーンが出現したため、かに道楽は告訴を起こして6年がかりで全面勝訴をしたこともあります。
現在では看板の「かに」は雇ったバイトが自転車を漕いで動かしているという都市伝説も存在するほど、道頓堀のシンボルのひとつとなっています。
道頓堀は芝居とユーモアの街
道頓堀は江戸時代から続く芝居小屋の伝統を残しつつ、ユニークな看板も新しく作ってきました。
「食い倒れ文化」と呼ばれる大阪ですが演劇や娯楽の優れた文化も培いながら、繁華街も上手に栄えさせてきたことが道頓堀の歴史を振り返ることで見えてくるのではないでしょうか。
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